2007年度1学期水曜4時限「認識するとはどういうことか?」

                       第6回講義(2007/05/23                

     

§5 感覚は信念を正当化するか?

  ――非信念的内在主義――

        

1、ゲティア問題の整理1 ――「正当化」の意味――

 

伝統的な知識の定義は、ゲティアが整理しているように、つぎのようなものであるとしよう。

SPを知っているとは、次のときそのときに限る。

@Pが、真である。

      ASは、Pを信じている。

      BSは、Pを信じることにおいて、正当化されている。」

 

(1)このとき、もしBの「正当化」を<他の正当化された信念からSが論理的に導出することである>とすると、他の正当化された信念の正当化が問題となり、無限遡行となる。ミュンヒハウゼンと同様の問題が生じて、信念の正当化は不可能となり、どのような知識も持ち得ないことになる。

 

(2)このとき、もしBの正当化を弱くとると、やはり問題が生じる。我々が何かを信じるとき、何らかの正当化を行っている。何の正当化もなく何かを信じるということは通常はないだろう(そのようなケースが、特殊なケースとしてありうるかもしれないが、それは以下の議論を否定することにはならないだろう)。そうだとすると、ほとんどすべての信念は正当化されていることになり、AとBを区別する意味はなくなる。そうすると、知識の定義は@とAを満たす信念ということになる。つまり、「知識とは、真なる信念である」という定義になるだろう。

しかし、(後で述べるように)@の条件は、Sがその成立を知ることが必要な条件ではない。それゆえに、Sにとっては、信念と知識の区別が存在しないことになる。

また、@とAの条件だけでは不十分であることは、プラトンがすでに指摘している。

 

(3)Gethiaは、Bの「正当化」について、上の二つの中間を取るであろう。もし、<他の正当化された信念からSが論理的に導出することである>と理解するならば、ゲティアの反例は、定義に従って知識ではないことになり、古典的定義の判例とならない。もし<Sが正当化されていると考えているのであればそれで十分である>と理解するのならば、条件のBは不要であり、古典的な定義を採用しないことになる。

 

 

 では、Gethiaは、Bの「正当化」をどのように理解しているのだろうか。Gethiaは、正当化を次のように説明していた。

  <SQを信じることにおいて正当化されている>と言える充分条件は次の通りである。

  (1)SPを信じることにおいて正当化されている

  (2)PQを含んでいる

  (3)Sは、PからQを導出し、Qをこの演繹の結果として受け入れる

(2)の「PQを含んでいる」をどのように理解しているのだろう。それは、「PからQが厳密に論理的に導出される」という意味ではない。もしそうならば、無限遡行になるからである。Gethiaはおそらく、「Pを想定すると、演繹推論や蓋然的推論や経験的な法則やこれまでの経験知を下にして、Qを結論付けることができる」という意味で理解しているだろう。

 

2、Gethia問題の整理2 ――正当化を判定するのは誰なのか?――

Gethiaのいう知識の3条件が満たされていることを知るのは、誰なのか?

 

条件@「Pが真である」が成立していることを知る者は、Pが知識であると知っていることであろう。ゆえに、@が成立することを知るのは、Sではない。もしSがそれを知るのだとすると、もはやその他のBは不要である。@の成立は、第三者の知である。

条件A「Sは、Pを信じている」の成立については、Sが知っているといえるだろう。(もしSの信念でありながら、Sがそのことを意識していない信念があるとすると、条件Aの成立を知るのは、第三者であることになる。)

条件B「Sは、Pを信じることにおいて、正当化されている」の成立は、Sがそれを知るのであろう。「正当化」を上のような意味で理解するならば、その成立をSが知らないということは奇妙なことである。(もし信念Pが正当化されていることを、Sが知らないのだとすると、その場合の「正当化」の意味は、上とは異なるものになるだろう。それは知識の「外在主義」の立場になるだろう。)

 

 条件AとBの成立を知るものは、Sであると考えることも可能であるが、しかし@については、そのように考えることは出来ない。つまり、この三条件を使って、Sの信念PSの知識であるかどうかを判定するのは、第三者である。これは、Sが自分の信念と知識を区別するために用いることが出来る基準ではない。

 

3、感覚によって信念を正当化することは可能か?

 

ゲティア問題を回避するために考えられたのが、「非信念論的で内在主義的な基礎づけ主義(nondoxastic internalistic foundationalism)」と呼ばれるものである。

 

「【非信念論的で内在主義的な基礎づけ主義】

 (a)基礎的信念の正当化理由は信念というかたちで心の中にあるのではない。

 (b)基礎的信念の正当化理由は信念よりももっと原初的な何らかの認知状態というかたちで心に抱かれている。

  (c)その認知状態は信念ではないのでそれ以上の正当化を必要としない。

 (d)しかし、その認知状態は信念に正当化を与える能力は持っている。」

(戸田山和久『知識の哲学』産業図書、p.47

 

「「もっと原初的な認知状態」の候補としてあげられてきたのは、「直接的な気づき」、あるいは「直観」とよばれる認知状態だ。そして、こうした認知状態の対象はしばしば「所与」と呼ばれてきた。つまり、基礎的な経験的信念を正当化する認知状態は、単に与えられるのであってそれ以上の正当化を必要としないというわけだ。こうした直接的な気づきや直観に訴えて基礎付け主義を守ろうとする哲学者はたくさんいる。20世紀に限っても、論理実証主義の一部、たとえばモーリッツ・シュリック、そしてアンソニー・クイントン、C.I.ルイス、ポール・モーザー、ロデリック・チザムなどの名前が挙がる。」(戸田山、同書、p.47

 

「もともとの基礎づけ主義は「信念論的」(doxaitic)であった。ここでは「非信念論的」(nondoxaiticである。しかしここでの「「信念以外のもの」は依然として、認知状態ではある、つまりいずれにせよ我々の心の中にある何らかの状態だ。このように信念が正当化されているかどうかが、我々の心の中の認知状態だけによって決まるという考え方を「内在主義」(internalism)という。」(戸田山、p.48

 

 非信念論的な内在主義によれば、<もっとも基礎的な信念(命題知)は、信念(命題知)ではない認知状態によって正当化される>という主張である。たとえば、「これは赤い」あるいは「ここは赤く見える」は、ある知覚によって、正当化されるのである。

 しかし、感覚や知覚によって命題を正当化するということに対しては、批判がある。それは、セラーズ(Wilfrid. Sellers 1912-1989「所与の神話(myth of the given)」と名づけた批判である。

「セラーズは、所与というもの(つまり内在主義的な基礎付け主義が要求するような認知状態)は次の二つをまぜこぜにでっち上げられた幻に過ぎないとした。(1)特定の対象からやってくる光や音を感覚すること、つまり感覚印象をもつこと、(2)どう見えるかについての命題的内容をもつ知識を非推論的な仕方でもつこと。」(戸田山、p51

 

「直観や直接の気づきという認知状態が、命題的内容をもち判断的なものだとすると、たしかに他の認知状態を正当化することができるが、自分自身も正当化を必要とする。逆に、そうした認知状態が命題的内容をもたず非判断的なものだとすると、こんどは正当化を必要としなくなるが、その代わりに他の認知状態を正当化することもできなくなってしまう。」(戸田山、pp.50f.)

 

以下の信念について考えて見ましょう。

 「これは黄色い」

 「私は存在する」

 「私は生きたい」

■「これは四角です」を例に考えてみよう。

A「これは何か?」


B「これは四角です」

 

A「何故そのように言えるのですか?」

B「命題が知覚と対応するとき、あるいは一致するとき、命題は、知覚によって正当化されるのです。」

A「そのとき、この命題が、知覚と対応するとはどういうことですか?」

B「これが指示する図形の知覚が、典型的な四角の像と似ているので、この図形は、四角の一事例だといえるということです。」

A「つまり「四角」という述語は、普遍的な言葉で、多くの対象に述語付けられる。そして、それらの対象の典型例を考えてみるとき、それとこの図形がにているということですね。」

B「そうです。」

A「つまり、「これは四角です」という命題は、この図形の知覚との関係だけからでなく、<典型的な四角の像>との類似性、という関係が用いられているのですね。」

B「そうです」

A「そのとき、<典型的な四角の像>についての、「これは典型的な四角の像である」という信念が用いられていますね。」

B「そうですね。」

A「そうだとすると、「これは四角です」という信念は、知覚によってだけ正当化されているのではなく、<一般的な四角の像>と「これは典型的な四角の像である」という信念によって正当化されることになります。そして、この「これは典型的な四角の像である」という信念もまた、それを正当化するのは、ある像(それを<一般的な四角の像>と呼ぶときには、それはすでに信念を利用している)だけでなく、何らかの信念をも用いて正当化されているのではないでしょうか。」

B「ある像を「典型的な四角の像」として理解するようになるのは、たくさんの四角の像を教えられたからだろうとおもいます。」

A「それを教えられたときには、個々の知覚像についての「これは四角です」という命題知を教わったということですね。つまり、これも命題知です。」

B「解かりました。あなたの言う通り、感覚や知覚だけからは、信念は正当化されず、それに加えて別の正当化された信念を用いているということを認めましょう。そして、その別の正当化された信念もまた、感覚や知覚だけでなくそれに加えて別の正当化された信念を用いている、と言うことを認めましょう。そうすると、信念論的内在主義のときと同様に、無限遡行になってしまうということですね。」

A「そのとおりです。非信念論的内在主義も、出発点となるような基礎的な信念を提供することはできないということです。」